中国の民衆は、反日デモという制限されたデモの中でも、不満と熱狂と自己の思いを燃焼させた。
やがて、自然に疑問が沸き起こる。
「いったい我々はデモに何を求めているのか。」
統制か。抑圧か。定められたスローガンなのか。
イトーヨーカドーの窓ガラスは、通俗的な形にすぎない。
中国国内の本質的な不満は、それとは異なっている。
香港では、劉氏投獄は中国の恥と、新たなデモ。
この「恥」という意識が、人を本能的な性善説の倫(みち)へと導く。
時に、本能は美学よりも強く、理想は現実の前に打ち砕かれる。
しかし、それを十分に知っておきながら、なおかつ、その現実を超越する意志、理想と美学を自らの指針とし、具体的な理想で自らを律する意志力がなければ、人は決して、正しく生きることなどできない。
その精神を捨てれば、それに代わるものとして登場するのは、目に見える物質主義であり、私利私欲に動かされ、損得と打算主義がまかりとおる世界、力あるものはますます栄え、弱き者は滅びる弱肉強食の社会である。
反日ばかりが、愛国ではない。
真の愛国には、愛すべき自国のための理想の追求、汚辱にまみれた現実を超越する意志力が求められる。
反日デモはやがて、「腐敗反対」、「住宅価格高騰」、「貧富の格差拡大」をスローガンとする自らの能動的な課題設定と、「愛国」を掲げた行動に変化していく。
支配するものは「変化」を欲しない。
「変化」を根本におく思想は、常に抑圧のもとにあって、その抑圧から解放されようとするものの思想である。kingsarmonj
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